The double

cotteの脳内日記

言葉とナイフ

これはもう数十年もまえのはなし

わたしが5歳だったときのはなし

 

突然歩けなくなった日があった

朝起きると

力が入らず立てない

 

困ったな

わざとやっていると思われるのかな

なにかの病気なのかな

 

その日は家の中を

四つ這いで移動した

 

今ならわかる

四つ這いができるということは

下肢で体重を支えることはできている

運動機能の問題ではなかった

 

それでも脇の下を支えられて

立たせられると

脚はぐにゃぐにゃと

たこやいかのような状態だった

 

怖かった

頭の中で命令しても

脚に伝わらなかった

 

わざとやっていると思われないだろうか

信じてくれているだろうか

治るのだろうか

 

心は焦る

一言発するたびに

親がどんな表情をするか確認する

 

翌朝になるとなにごともなかったように

自分で立ち、歩けていた

 

ほっとしたのと

あと数日続けばよかったのにと思う

複雑な気持ちがない交ぜになったことに気づき

少し自分自身が恐ろしく感じたのを覚えている

 

あれはなんだったのだろうと

ふと思い出すときがある

 

時が経ち、知識も増え、経験も重ね

その中で

あの時はきっとこうだった

という解釈はいくらでもできる

 

けれどそのような解釈をするまえに

身体は先に反応する

 

あとにもさきにも

わたしが歩けなくなったのは

立てなくなったのは

あの時だけだった

 

だけど今ならわかる

心はなんども

歩けなくなって

立てなくなって

なんとか身体に反映されなかっただけなのだ

 

そのなんどもなんどもの

どこかで

もっと早く

ちゃんと言葉にしていたら

声に出していたら

なにかが変わっていただろうか

 

「あなたのためを思って言ってるの」

「あなたのためにわたしはこんなに我慢している」

じわじわと子どもを殺す科白

 

言葉のナイフを持ち合わせていない人なんて

いないことはわかってる

 

わたしも持っている

バッグの底にあって

財布出したり

ポーチ出したり

もたもたしながら

出すナイフではない

 

いつもさっと懐から出せてしまうような

そんなナイフがある

 

それをいつも自覚しながら

出さぬよう生きていきたいと思っている

 

「今日は学校に行きたくない」

はっきりとそう言葉で伝えてくる

こどもたちを目の当たりにするたびに

当時のことを思い出す

 

「ずる休み」という言葉は使わない

投げかけない

ナイフをぐっと手で上から押さえる

もっと違う言葉があるはずと

 

あの時のわたし自身は

どんな言葉をかけてもらいたかったのだろう