The double

cotteの脳内日記

自己肯定の道

いままでのこと

違ったかもしれない

 

あんなふうに言っていたけれど

もうそうは思わなくなってしまった

 

いっけん

また自分を否定していることのように

思えるけれど

 

意外とそれは反転して

最強の自己肯定の道に続いているんじゃないか

 

違った

そうじゃなかった

考え方が変わった

 

そう自分に一度

句読点をつける作業

 

そして一マス空けて

また改行する

一歩

 

それはアップデートする日々

それは軌道修正していく日々

 

どうして

なぜか

 

この言葉ばかり追っている人には

わからない

 

どこの駅で降りても

必ずたくさんの路線が用意してある

必ず誰にでも

 

いま乗りたい列車はどれだろう

新しい出会いを運ぶ列車

新しい景色の見える列車

 

一度はさよならした

あの人が乗り込んでくる

そんな奇跡もある

 

なんどもなんども

繰り返し

 

そしてなんどもなんども

乗り換えることができることを

知っている

 

だから

今までの自分を

自分の発言を

自分の行動を

 

みんなごめんと

 

もうわたしはそうは思っていないと

この列車から1人で乗り換えると

 

みんなとさよならすること

昨日までの自分とさよならすること

 

最強の自己肯定の道のりへつづく

今わたしは本気で思っている

 

 

 

 

ことばに乗せて

同じ意味あいでも

同じ考え方でも

 

どんなことばを選択しているか

どんなふうに一文を構成しているか

 

がらりと印象が変わる

 

根本は一緒なのかもしれない

 

それでもその選ばれたことばに

敏感に反応する

 

ことばは人を形成する

 

その微妙な

ことばの選択で

 

合いそう

合わなそう

 

身体のどこかが反応する

心でも

頭でもない

どこか

 

親愛さがうまれるのは

そんなとき

 

一歩距離を置きたくなるのは

そんなとき

 

好きとか

嫌いではなく

 

親和性

 

親和性は

発せられることばや

組み合わさり方で

判断しているような気がする

 

ことばと意志の親和性

奥深い作業だけれど

 

わたしはとても大切に感じている

 

ブログを続けている

ひとつの理由でもあるのではないかと

最近気づいた

 

だれかと繋がることも

ひとつの理由だけれど

 

その前にやはり

じぶんの思考とことばの

親和度をより高めたい

衝動に常にかられる

 

それが喉を奥から

発せられることばへと

繋がるようになりたいと

 

まだまだ

話すとなると

自分では

思いもよらない方向へ

向かうことがある

 

まるで独立した

生きもののように

遠くから聞こえてくることばのように

 

違う 違うと

耳でその声を聞いている時が

まだある

 

自分と自分が重なり合う

瞬間を

もっともっと積み重ね

 

その声で

自分を包み込みたい

 

 

めがねとカツラ

おかげさまで

わたしは日々の暮らしの中で

さまざまな世代の人々と

ことばを交わす機会が

そこそこあるほうだ

 

ある日

親世代のおじさまに

「めがねをかけている人は

やっぱり人前でめがねを外すことに

抵抗はあるのかね?」

と訊ねられた

 

間髪入れずに

「無理です、無理。恥ずかしいですね。

基本寝る時と入浴の時にしか外しませんね。」

と答えると

 

「カツラと一緒か」と返ってきたので

 

「え?!カツラと一緒にしないでくださいよ~」

とこれも間髪入れずに答えてしまったのだが

これはカツラに失礼だったなと

 

この方の帽子の下はもしやカツラなのか…とも

言ってから案じたが

笑って話は終わった

 

若い頃は

コンタクトレンズもつけていたが

ものぐさなわたしは

少しでも楽なことを選択しているうちに

 めがねに変えた

 

これが想像以上に楽で

顔の前に一枚シールドが出来上がった感覚

軽く武装した感覚になり

ふっと力が抜けた

 

人と会うことに対して

むやみに構えることが

格段に減った

 

めがねをかけている人の中には

写真を撮る時には

必ず外すという人も

意外と多くいる

 

集合写真などで

「ちょっと待って」

といってめがねをはずし、

前髪を手で

さらさらと整えている人を見ると

 

わたしには考えられない行動なので

思わず、「ぎょっ」としてしまう

 

わたしにとってのめがねは

こうしためがね族とは

存在の仕方がすこし違うのかもしれない

 

もう単なる道具というわけではなくなっている

 

 

わたしにとってめがねという存在は

どちらかというと

カツラに近かったやも知れぬ

 

 

文章と文章の交流

世間知らずのわたしが

ブログというものが

この世界にあると知ったのは

13年前

 

それまでインターネットと触れ合うことが

ほとんどなかった

 

知らな分野だから

とても怖いものだと

思っていた

 

しかし

「どうせ危なくて、怖いものなんでしょ?」

という気持ちよりも

 

「自分の言葉を文字にしたい」

「似たような思いの人に出会いたい」

という気持ちが勝るほど

毎日、毎日乳飲み子と自分だけの世界に

わたしは精神的に追い詰められていた

 

なんどもなんども

引っ越しを繰り返し

HNも変えたりしながらも13年

 

変えていないことは

その時々の気持ちを素直に綴ろうと思うこと

 

ある時は

詩にしてみたり

フィクションの中に放り込んでみたり

 

今でも実生活と頭の中の世界の

はざまを舞台に書いているつもりだ

 

この13年の中で

わたしはかけがえのない人々にも出会っている

嫌な思いをした記憶はない

 

実際に今でも年に数回会う人もいれば

本名も顔も年齢もわからない人もいれば

ある日突然どこかへ行ってしまった人もいれば

 

そんな全てを含めて

文章と文章の交流で

かけがえのない人にたくさん出会っている

 

それはときに瞬時に消えてしまう

スピード感のある会話の相手よりも

 

大切な相手に感じる時もある

 

その文章に包まれ希望をもらうこともある

しあわせな気持ちになることがある

相手のまぶしい未来を願うときがある

 

わたしはブログを通して

さまざまな形の出会いと繋がり方があることを知った

そして繋がりの強さや親愛さには

会う回数

ことばを交わす回数

年月などの

量では測れない

 

なんだか不思議な秤があることを知った

 

生きている限り

出会いと別れは繰り返すもの

感傷的にはならない

ただただ感謝

出会えたことの感謝

 

さいごに

小沢健二「ぼくらが旅に出る理由」の一節を

   遠くから届く宇宙の光 街中でつづいてく暮らし

   ぼくらの住むこの世界では 旅に出る理由があり

   誰もがみな 手をふっては しばし別れる

 

 

大きく手を振って

ありがとう

 

でもたぶんきっと

どこかで会える

 

 

信じられる人

小学校にあがってから

何度目か

 

きちんと数えていないのでわからないが

何度目かの

 

「明日、学校行きたくないから休む」とある夜

むすめが言ってきた

 

明るかった

元気だった

夕飯もいつもどおり

ご飯は2杯食べた

 

「そっか。わかった。」

 

息子がそんな妹を

興味深く眺めている

 

「学校にはなんて伝える?」

 

「今、わたしが言ったように、言ってくれていい」

 

初めてだった

 

今までは

「お腹が痛いと言って」

「ちょっと元気がないと言っておいて」

なにかしら体調に絡めてきた

 

それでも

「ずるい」「さぼり」とは言わなかった

というかそんなことは言う資格もない

 

ほんとうのことは自分さえもわからないこともある

それを親だから

大人だから

ただそれだけで

判定はできなかった

 

言われたことを

信じるしかない

 

けれど今回は違った

「嫌なことは嫌」

「行きたくないものは、行きたくない」

はっきり伝えていいと

初めて言った

 

新しい学年

新しいクラス

新しい先生

 

4月に入りしばらくしてから娘が言った

「こんどの先生ね、ママに似ているんだよ」

「頭ごなしに怒らない先生なんだよ」

「新しい先生、はじめは不安だったけど、好き」

 

彼女は、この先生になら

本当のことを言っても

いいんじゃないかと思ったのだろう

 

信じているんだな

そんな人にまた出会えてよかったなと

すこし安心した

 

彼女が信じている人

わたしも信じてみよう

 

翌朝、わたしは素直に、率直に

彼女が言った言葉をそのまま伝えた

 

彼女が信じている人は

わたしがはなすこと、

わたしを信じようとしてくれるのが

強く伝わってきた

とわたしはわたし自身感じてる

 

信じる人

信じたい人

信じられる人

 

出会いの中で人は成長する

 

娘がこれから

まだまだわたしが経験したことのないような

学生生活を送るのを目の当たりにするたびに

彼女もわたしも

強く、たくましく、しなやかになると

信じている

 

明日はどうするのだろうか

明日は明日の風が吹く

である

格闘

夫は無自覚だが

 

買い物下手である

 

数年前

新聞広告だったか

TVショッピングだったか…

 

唐突に和布団の上に敷く

マットレスを購入した

 

腰が少し痛くてさ

 

うん

わかる

 

 

毎日おつかれさま

買うがいいさ

身体は大切だ

身体は資本だ

 

しかしなぜか

購入したマットレスは

セミダブル

 

 

何故だ

隣の布団の半分ほどに

覆いかぶさるではないか

 

だって

シングルよりお得だったから

 

うんうん

1人でいい思いばかりじゃ

気が引けたのだね

家族思いだね

 

でもこのスペースの陣取り方は

他の者にとって寝づらいばかりである

 

しかも

このマットレス

とにかく扱いづらい

 

ぎゅっと密度が高く、重いわりに

ふにゃふにゃとしている

4つ折りに畳んでも

びよよんとまた元の大きさに広がってしまう

 

畳んだり持ち上げたり

部屋の掃除にも支障がでる

 

また腰痛のことを考えても

これに寝ると

身体が沈み

マットレスと身体がぴたっと密着し過ぎて

いいんだかどうだか

 

しかも密着度が高いので

背中が暑い

そして蒸れる

 

 

 

普通に和布団で寝た方が

腰にもいいような気がします…

 

と少し気を悪くしない程度に

アドバイスする

 

しばらくすると

きまり悪そうに

夫は

ほんとうだ。和布団だけで寝た方が腰が楽だ

とぽつりと言った

 

処分してね

そう伝えてから1年が過ぎた

 

未だ寝室に放置状態

 

これも夫のいつものパターンだ

 

ある日突然

わたしの変なスイッチがバチッと入ってしまった

 

わたしよりもはるかに

大きく重いマットレスを

 

うんしょ、うんしょとリビングにまで運ぶ

 

粗大ごみ代を払うのももったいない

 

包丁を取り出し

ざくざく切る 切る 切る・・・

切り分ける 切り分ける 切り分ける・・・

45Lのゴミ袋に押し込む 押し込む・・・

 

突然背後から

ぎゃーーーー!!!

と叫び声が聞こえる

 

学校から帰宅した息子だった

 

ふと顔をあげると

辺りはもう日が沈みかけていた

明かりを点けることも忘れ

暗い部屋で

一心不乱に包丁を握りしめている親を見たら

子どもも慌てることだろう

 

なに?!

なにか嫌なことでもあった?!

 

心配してくれてありがとう

なにもないよ

 

ただずっと放置しておいたことを

やっとこ片付けているだけ

 

ゴミ袋が6袋目になったころ

ようやく

マットレスは消えた

 

心なしか寝室も広く感じる

 

終電で帰ってきた夫は

この袋の山をみて

 

やはり息子があげたような声をあげるだろう

 

フクロウの声が聞こえる

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基本メロディ優先

リズム優先

歌詞は二の次

 

音楽を楽しむとき

そんなわたしだが

 

ことオザケンに関しては

歌詞をしっかりと追ってしまう

 

歌詞の内容と本人をダイレクトにつなぎ合わせては

本人も大変に迷惑であろう

 

それでも

彼が歌うものの世界を

頭の中にイメージする

 

現実とは違う世界

それでも実現するかもしれない世界

実現したらどんなに素敵なんだろうと思わせる世界

 

イメージするだけで

心が幸福感で震える世界

 

今と何が違う?

現実と何が違う?

 

いま一度

大きく舵をきってみないか

誰かが耳元囁く

 

壮大な物語がはじまる予感

ファンタジーで

シンフォニックで

いつか混沌と秩序が一緒にある世界へ

いつか絶望と希望が一緒にある世界へ

いつか孤高と共働が一緒にある世界へ

いつか残酷さと慈悲が一緒にある世界へ

ベーコンとイチゴジャムが一緒にある世界へ

根拠はないけれど

みんなとなら

そんな渦巻く世界の扉をあけられそうな気がする

 

いま

わたしはたくさんの人たちと

おおきな船に乗っている

 

数分でそんな気持ちにさせてくれる

オザケンの楽曲

 

閉塞感もいっぱいの今の時代だけれど

やっぱりオザケンのいる時代に

生まれてよかった

わたし