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The double

cotteの脳内日記

あきらめてください

この3連休の真ん中の日

夫が仕事で出勤することになった

 

「もうしわけない…」

休みの日に家を空けることには慣れている

その日に限って

なぜにあらたまる…

 

「いや別に気にしてないし」

「いやこんな大事な日に、申し訳ない」

大事な日?

何を仰っているのやら…

 

いつもと違ってしおらしい姿も

なんだか芝居じみてみえてくる

 

面倒なので無視

 

「やっぱり今年も忘れちゃってますかぁ…」

 

このなかなか結論に達しない話し方は

夫の特徴で

わたしはいつもちょっとだけ

腹立たしくなる

 

「だから何?」

 

「結婚記念日です」

「あ、ごめん。今年も忘れてた。」

 

16回目の結婚記念日

計算しやすいように2000年に結婚したのだが

16回、毎回忘れてしまう。

以前も花束を持って帰ってきたときに

「誰に貰ったの~?」と言ってしまった

 

わたしには記念日を覚えておくことは重要ではない

誕生日もよく忘れる

書類に書くこどもたちの生年月日も

実はあやふやだったりする

こっそり保険証で確認してから

書いている

 

人によって重要ポイントは違うので

これはもうどうしようもないのである

 

夫も家族も大切だけれど

その愛情と記念日を覚えておくことは

私の中では比例しない

 

いい加減、

夫よもうあきらめておくれ

 

 

切なさとキラキラと

まっすぐにキラキラしたものだけを

心の小箱にしまって

生きている人はいるんだろうか

 

どこかちょっぴり切なくて

けれどキラッと光って

温かくて

あの時違う選択をしていたら…

と想像して

でもこれでよかったんだと

思ったりして

 

そっと時折

その小箱の中を覗いて

また前を見据える

 

切ないけれど

大切で

いつか呆けてしまう日が来ても

この思いは忘れたくない

そんな記憶がいくつもある

 

ただのまっすぐのキラキラは

意外と忘れていたりするものだ

 

先日の娘のホワイトデーの姿をみて

そんなことを思った

 

以前書いたが私にも同じ歳の頃こんな思い出がある

privatecotte.hatenablog.com

 

贈ったチョコのお返しをしてもらい

嬉しい気持ち

それまでに本当にお返しをもらえるかの不安

ヴァレンタインとホワイトデーの間の期間の接し方

話せた日、姿を見かけたけれど声をかけられなかった日

 

1年前はもっともっと気持ちも子供で

2人で虫取り網を持って

駆けずり回っていた日々

 

ああ

こうして今は知らないけれど

もっと成長した時に

どうしようもないくらい

大切な記憶になるのだろう

 

時々

そっと小箱を開けては

切なくなったり

温かくなったり

後悔したり

感謝したり

 

1つの思い出で

1人の相手で

得も言われぬたくさんの感情を知るのだろう

 

2人が並んでいる姿をみながら

その彼にはお返しをもらったことだけでない

 

もっと、もっと

たくさんのありがとうを届けたい

 

無自覚なままでいいんだ

そのままいてくれるだけで

それだけで娘は自分を自分で形成していく

 

そう思うとわたしもすっかり忘れてしまっている

誰かの

小箱に存在しているのかもしれない

 

少しこそばゆい感覚

テーブルに置かれた

キャンディーの瓶を見つめながら

すこしニヤついてしまった

 

 

自由と孤独

本格的に思春期へ

小学3年のむすめのことである

 

年末辺りから

死生観について話すようになったり

変化はあったが

 

最近

「みんなと遊んでいてもふとした時に自分はひとりだなと感じる時がある」

と言いだした

 

とうとうきましたな

むすめよ、おいでやす

 

なにかいじわるをされたわけじゃない

仲間外れにされたわけじゃない

 

ただふと

疎外感を感じるのだ

 

みんなときゃっきゃ、きゃっきゃしているときほど

それは襲ってきたりするものだ

 

嘘までではないけれど

自分の心と少し離れる感覚

 

みんなには

ひょうきんで

明るくて

天真爛漫

といわれているむすめ

 

けれど

むすめはそういわれるたびに

みんなのほうが

ずっとそうだよ

と心からそう思うらしい

 

時々むすめは一人を選ぶ

思うがままに自分だけの時間を使う

けれどそれもまた孤独を感じることになったりする

 

自由ってなんだろうね

 

自由とは孤独と背中合わせ

それでもその自由を選びとる姿勢は

誰かに勇気を与えていることがある

 

波のように

行ったり来たり

心は定まらず

 

踏み入れた思春期を

むすめは途方もなく長く感じるだろう

 

寝顔を覗けば

まだまだ赤ん坊の面影が残っている

まだまだその小さい手で

一旦築いたものを

恐れず更地にするパワーを持っている

 

そのパワーをみせつけられると

きみはもう小さいけれど

立派な芸術家だ

 

自分に嘘をつく一番の存在は自分だ

自分に騙されず

思いっきり孤独を噛みしめ

自由を手に入れろ

 

気のせい

今の流行は炎上か

というくらい

そこかしこで炎上をみかける

 

数か月前

お笑いコンビのひとりが

タクシーにぶつかった?こすった?

でだいぶ叩かれていたけれど

 

誰だって

「大丈夫だったよね?」

「そんなことなかったよね?」

と自分のいいように物事捉えたことはあるだろう

 

今、まさに私はそんな状況にある

 

家族が目が痒い、痒いと言いだした

家族が目薬を挿しまくっている

家族が揃って「花粉症がはじまった」と言いだした

 

ただいま

わたしは絶賛両鼻づまり中

でも違う

花粉症ではない

 

わたしが花粉症になるはずがない

 

根拠はまったくもってない

 

けれど

わたしは花粉症ではない

この鼻詰まりは

気のせいだ

 

ずっとこの先も

「花粉症~~」と言ってきた人に

「大変だね~」と返答したい

 

「大変だよね~お互い」

これ、言いたくない

 

これは花粉症じゃない

ただの鼻づまりだ

2週間続いているが

鼻づまりだ

 

やむをえずマスクはしているが

「花粉症?」とよく訊ねられるが

 

「いえ、違います」

ときっぱり返答している

 

目が痒くなるまでは

観念しない

 

ということで

花粉症の方々

お大事に・・・

 

文集にツェッペリンを

卒業シーズンである

忘れていた

中学の卒業の頃を思い出した

 

 

高校受験も終わり

学校では卒業文集作りがはじまった

 

以前にも書いたが

わたしはどこかで大人が喜ぶ、安心する

こども像がわかっていた

 

頭の中も腹の中も

どす黒く

周りにいる大人たちを観察しては

「汚いおとなにはなりたくない」と

自分も真っ黒なことは置いといて思っていた

 

勉強は

好きだったのか?

嫌いだったわけではないが

暗記優先の勉強には

いつか限界がある予感はあった

 

それでも何に対する意地か…

 

県内ではその名を聞けば

「おお!」と一目置かれる

県立高校に合格し進学が決まっていた

 

それでもドロドロしたものが

自分の中を流れていた

顔はいつも笑顔を作っていたが

喜ぶおとなたちを冷めた目でみていた

 

そんな一段落感のある中での

卒業文集作り

 

家路につくと

わたしは自分のLP盤の棚から

一枚のレコードを取り出した

歌詞カードをみる

対訳の日本語はない

英語のみだった

 

辞書を片手に訳す

学校の英語とは違う

主語がどれかわからない

数行とにかく単語を書きだすと

見えてくる

 

接続語のwhichがどこに繋がるのか

わからない

 

学校の英語の授業とあまりに違う

歌詞の世界

 

これ

このまままじめに英語の授業を

あと3年続けて受けても

英語なんてまともにしゃべれるようになれない

と、

こんなところではっきりわかってしまう現実

 

それでも数日かけて

オリジナルの訳詞ができた

 

LP盤の棚から取り出した一枚は

レッド・ツェッペリンの「Ⅳ」

選んだ曲は「stairway to heaven」(天国への階段)

 

自分の文集スペースに書き写した

 

卒業式の二日前

出来上がった文集を手渡される

「何を書いてんだ。修学旅行でも運動会のことでも

書くことあっただろ」

担任の声が遠くに聞こえる

 

ホームルームが終わり

教室を出ると

廊下で一年目の若い数学の先生に呼び止められた

 

「担任の先生はちょっと怒っていたけれど、

俺もあの曲好きだよ。

俺はあの文集、すごくよかったよ。

高校でもおまえらしくいろ。」

 

そうだった

これが一番のはなむけの言葉だった

 

特別親しくしていた先生ではなかった

特別親しくしていた先生なんてひとりもいなかった

 

それでも黙って見ていた人がいた

上手く言葉にできない苦しさを

少し勘づいてくれている人がいて

それでいいと

肯定してくれた人がいた

 

そんな予想だにしないことが

予想だにしなかった人からある

 

だから今の若いひとたちにも言いたい

欲しい人から

欲しい言葉は投げかけられないかもしれない

 

それでもあたなを見ている人が

あなたの本質を見ている人がきっといる

気付かず通りすぎてしまうこともあるだろうけれど

そっと見守っている人たちも

きっと何人もいる

 

世界はあたなが思っているよりも

少しだけ広く

温かい

 

 

古代魚

学校の廊下に立つと

いつも

みえてくる

 

崖の上のぽにょの終盤ではないけれど

廊下は海の中で

 

古代魚が泳ぎ、行き交っている

 

みえないものがみえてくる

 

すこし息苦しい

 

自分が通っていた頃と

根っこの部分はあまり変わっていないよな

と思ってしまう

 

装備はきれいになった

タブレットなんてものも扱える

体罰もなくなった

 

けれど

上に綺麗な布を被せただけの

吸い込む空気は変わってないな

と感じてしまう

 

上手くこの中を泳ぐこどもたちも大人たちがいても

 

上手く息継ぎできなくて

他の陸地を目指す

こどもたちも大人たちがいても

不思議じゃない

 

むしろ選択肢がないようにみせられる世界の方が

不思議だ

 

無邪気にとはいかなくなってくる

子供の成長

ともに疑問をもちつつ

ときにお互いに疑問をぶつけつつ

ときに選択を尊重しつつ

 

ここかしこに上がれる陸地があることを

確認しつつ

古代の海を泳いでいる

支点

2月後半から怒涛の日々

知らぬ間に3月に入っていた

もうダメ

もうあかん

もうすこし寝させて…

毎日起き抜けはこんなかんじだが

30分もすると

またばたばたと就寝時間まで動いている

 

ある支点に立って今の自分の状況をみると

かなりうまくいっていないと感じる

 

しかしまたとある支点に立ってみると

すごく恵まれていることを感じる

 

毎日こなすことをやりながら

頭の中でぐるぐると

たくさんの支点に立ち

自分をみつめることを繰り返している

 

ぐるぐるしながらも

ちょっと前に進む

 

遠くをみつめてしまうと

どの支点からも

ひゅーーーんと

まっさかさまに落ちてしまいそうで

 

だから目の前だけをみる

 

そして今日もぴょんぴょん

たくさんの支点を上を

飛び跳ねている